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学園篇 外伝「Träumerei」

 
 
  
  
 
 ドアがノックされた音を聞いたような気がして、エトワールは耳を疑った。
 時計の針はあと5分ほどで朝の6時を指すところだ。
 マグカップを手にしたまま耳を澄ます。夜が明けかかった学生寮はまだどこも寝静まったままだというのに。

 私立文化学園は全寮制であり、全校生徒は学生寮で暮らしている。
 学生寮のスタンダードルームは二人部屋であり、四人部屋が一般的な世間の相場からすれば贅沢な部類に入る。
 ただし音楽専攻の学生に一人で部屋を使いたがるケースが多いのは、自室で練習するとルームメイトに迷惑をかけるからだ。
 そんな理由でルームメイトが楽器可の防音つき個室に移ったので、エトワールは現在、二人部屋をのびのびと占領している。
 部屋には小型の電子ピアノ(もちろんサイレント機能つきの)があるが、それはあくまでも作曲編曲時に音を確認するためであり、練習はもっぱら練習室か記念ホールのピアノを使っている。
 無論、記念ホールのピアノは誰でも自由に使わせてもらえるわけではない。それは十進法で片手に余る、成績優秀者に許された特権の中の一つだ。

 やっぱり空耳だったかな、と思いながら淹れたてのコーヒーを一口すする。
 再びドアが鳴った。
 幾分控え目な、3回のノック。
 慌ててマグカップをテーブルに置き、エトワールはドアに向かった。

 日本では2回ノックを当たり前のようにどこででも使う人間が多いが、ノック2回はトイレの空き室確認、4回は仕事先など礼儀が必要な場合だ。
 友人知人恋人など親愛ある間柄への3回ノックをエトワールの部屋のドアに鳴らす人物は限られている。しかもこんな早朝に。

「ヨハン。・・・おはよう」
 予想通りの訪問者に、どうしたのと尋ねたい気持ちを飲み込んで、にっこり笑ってみせる。
「相変わらず早いな」
 穏やかに微笑むファウストがなんだか元気がないような気がして、つとめて明るく返す。
「まあね。・・・すぐ行くから、先に行ってて」

 当然ながら男子寮と女子寮は別棟になっていて、往来は制限されている。一般生徒は異性の寮棟へは寮監の目の届く談話室までしか立ち入ることはできない。
 ファウストは生徒会長だというだけでなく、学園の後継者候補だからこそ特別権限を与えられていて、好きなときに好きなところへ行くことができるのだが。
 ファウストがエトワールの部屋を訪れる用件は他にはない。
 ただ、エトワールの弾くピアノを聴くためだ。
 そして、それはファウストにとって、落ち込みそうな自分を励ますための儀式なのだ。・・・多分。
 だからこそ、自分一人のために記念ホールでピアノを弾いて欲しいというヨハンの――ファウストの願いを叶えるのは、エトワールにとって喜びであり、誇りでもある。

 常に成績トップを誇る今では特待生となり、おおっぴらに好きなだけ弾きまくることができる身分だが。
 授業をサボって許可も得ずこっそりスタンウェイを弾いていたのを、同じく授業をサボって客席で昼寝をしていたファウストに見つかってリクエストを受ける羽目になったのは中等部2年の時だった。
 二人きりの時はヨハンと愛称の方で呼ぶのもその時からで、今も密かに続いている。

 マグカップのコーヒーをもう一口だけすすって、エトワールは譜面を入れたレッスンバッグを手に部屋を出た。
 ヨハンがお気に入りの席で待っている。
 スタンウェイと、ベーゼンドルファー。今日はどちらを弾こうか。


 ベーゼンドルファーはいつもどおりの完璧なコンディションだった。こまめに調律されているだけのことはある。 
「・・・今日もレクイエム?」
 指ならしの平均律クラヴィーア、フーガ第2番ハ短調BWV847を弾き終え、「特等席」のファウストに向かって声を張り上げる。マイクなしではそうしないと声が届かない。
 ファウストが頷くのを見て、エトワールも頷き返す。
 フォーレのレクイエムから、Introit et Kyrie
 何度もリクエストされてすっかり覚えてしまった。4声のコーラスと伴奏をピアノ版に編曲したのもエトワール自身だから、譜面を覚える方にはそう苦労はなかった。
 でも。
 エトワールは胸の内でつぶやく。
 ・・・ヨハンの肩に乗っているものを思えば、こんなものはきっと苦労の内ですらない。

 余韻がホールの天井に吸い込まれて消えていく。
 客席のファウストが目を閉じてシートの背に身体を預けているのを確認し、両手を膝に下ろしてエトワールは微笑した。
 椅子の上で居ずまいを正し、目を閉じてほんの少し天上を仰ぎ見るように顔を上げる。深く息を吐ききり、ゆっくりと吸いながら目を開いて再び鍵盤に指を乗せる。
 曲は、シューマン作、トロイメライ
 第1音は中央のC。といってもトロイメライは4拍目の四分音符から始まるアウフタクトの曲だ。p(ピアノ)は「弱く」ではなく、「やさしく」。

 激しさと純真さを併せ持ち、喜びの中に少しの憂いを含むシューマンの曲たちの中で、純真な子供のような心を持つファウストに捧げるにはピッタリだと思う。どんな慰めの言葉を紡ぐよりもこの曲が安らぎに導いてくれる。
 テンポは80。
 幻想的で、透明感があって、そして優しい母がうたう子守唄のように。
 エトワール自身もこの曲を弾くと気持ちが安らぐ。
 シューマンの曲はシューマンの世界が強く、弾いていて、もっていかれそうになる。その意味でシューマンの世界と拮抗する必要があり、同時に演奏者はニュートラルになる必要があって。
 そのためには、依り代になるのが一番良い、と思う。自分自身を捨てるのではなく、超えたところで曲を受け容れ、曲の世界と一体になる。言葉で表すとしたらそんな感じだろうか。

 弾き終えた姿勢のまま、エトワールはしばらく余韻に浸っていた。
 ふと、客席最後尾の通路に立つ二つの人影に気付いて立ち上がる。 
 低い方の黒いマント姿がゆっくりとファウストに近づいていく。
 ファウストはシートに深く掛けたまま俯いて動かない。
 ステージ前のステップを降りて、エトワールは二人の闖入者よりも先にファウストの前に立った。
「・・・眠ってる」
 ファウストのすぐ後ろまで来た黒マントの魔女に声をひそめて告げる。
 うんうんと頷いたのは青の魔女だった。
 タブーにより魔女のもつタグでは記念ホールに入れないはずだが、彼が連れてきたのかもしれない。そう思いながら、エトワールは後方の通路に立ち止まったままの姿を見上げる。

 記念ホールの怪人、メフィスト。白づくめの謎の男。
 高等部3年13組だという噂を聞いたのは誰からだったか。
 ファウストに確認したこともなかったので、生徒会主催の劇「白雪姫」の舞台稽古で初めて顔を合わせたときには内心の驚きは隠せなかった。
 生徒会室にも出没するという噂がぱっと広まったのは年明けだったか。
 記念ホールに住み着いていて演劇部にダメ出しをするという噂は以前からよく知られている。
 右頬の大きなタトゥーのような模様もだが、褐色の肌に黒い髪と黒い瞳。その眼差しは大層危険な香りがする。
 これも噂では、ファウストが手懐けたらしい。メフィストという名の白い悪魔がファウストに仕えている、と誰ともなく言い出したのは、ゲーテやマーロウで有名なファウスト伝説の影響に違いない。
 その後、使いっぱしりをさせられている姿があちこちで目撃されるようになり、本当にファウストに仕えているらしい、と認識されるようになった。

「エトワール。すまないが、協力してもらえないか。ファウストをしばらく休ませてやりたい」
 魔女が差し出した紙袋を受取りながら頷く。
「着替えてくる」
 紙袋の中身は、ウィッグとカラーコンタクト、それに男子の制服一式だ。
 エトワールがファウストの影武者を務めるのはこれが初めてではない。エトワールの髪色は烏の濡れ羽色とも呼ばれる漆黒で、瞳の色は榛色だが、ウィッグとカラーコンタクトでどちらも変えられる。
 白羽の矢が立ったのは、エトワールがもともと中性的な容姿の上、ファウストと背格好が似ているからであり、ファウストの立ち居振る舞いをよく知っていてそれらしく振舞うことができるからだろう。
 楽屋口へ向かおうとして、エトワールは客席の階段を下ってきたメフィストとすれ違った。
「先輩、ヨハンをよろしく」
 すれ違いざまに、メフィストにそう声をかけた。深い意味も浅い意味も特になく、エトワールにとってはただの挨拶のつもりだった。
 足を止めたメフィストが僅かに顔色を変えたような気がして、すれ違ってから立ち止まる。
 振り向いてみれば、メフィストは再びゆっくりと歩を進めるところだった。
 勘付いてしまったそれに思わず笑みを浮かべたまま、エトワールは何も言わずに楽屋口へ向かう。


「・・・朝食はまだだろう? ええと、コーヒーの方がいいんだっけ」
 戻ってきたエトワールを認めて、魔女がにこやかに尋ねた。ファウストとメフィストの姿はなく、ファウストのお気に入りの席に今は魔女が座っている。
「いや、紅茶を」
 それらしく声音で答え、ヨハンは紅茶派でしょ? と付け髭を手で押さえてなじませながら地声で続けた。
 背格好が似ているだけあって、同じ制服とローブを着てウィッグを付け、黙って俯いていればファウスト本人に見える。
「で、先輩は?」
 にやりと笑ってみせたエトワールに、澄まし顔で魔女は言った。
「悪魔の好物はスピリットと相場が決まってる」
 それは魂という意味を持つ単語であり、蒸留酒を指す言葉でもある。
 白い悪魔とも記念ホールの怪人とも恐れられているメフィストがファウストに向ける眼差しをひそかに想像してエトワールは微笑した。

 ファウストと身近に接した者は、まず例外なく下僕か熱烈な信奉者になるとまことしやかに言われているが。
 事実は少しだけ異なる。
 真摯に自分が背負うべきものを見つめているファウストを、助けたいと願ってしまうのだ。
 求められてピアノを弾いてあげることしかできないけれど。
 他の誰にも真似できないくらい、ヨハンが安心して眠ってしまえるような曲と演奏をいつでも準備しておくことがエトワールの精一杯の真心なのだ。

 そして、ファウストの寝顔を腕の中に見下ろしながら部屋へと急いでいるだろうメフィストも。
 同じ想いを胸に秘めているに違いない。






                                 完



             Special thanks  s_riko(楓姫)
        I express my sincere thanks to her for telling me.





       Dedicated to Etoir and His Highness, Johann Faust.


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 真夜中の書斎管理人。希望と書いてノゾミと読みます。腐ってなどいません。発酵しているだけです。

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